タリバンを知るための「教養としてのイスラーム法」入門【中田考】「隣町珈琲」前編
「隣町珈琲」中田考新刊記念&アフガン人道支援チャリティ講演(前編)
■タリバンだけがアフガニスタンの政治を司る理由
ここまでの話を前提に、タリバン政権に話を戻しましょう。「なぜタリバン政権は選挙をしないのか」という問いに対しては、今説明したようにタリバンも「選挙はする」のです。その時に「選挙権」を持っているのがタリバンの人間に限られているのです。
なぜタリバンしか「選挙権」を持たないのか。それを理解するには、イスラーム法と、イスラーム世界の歴史を紐解く必要があります。
イスラーム世界で政治を行おうとする時、イスラームは法の支配なので、イスラームの法を知らない人間には政治はできません。ですので、イスラーム法学者と権力者が指導者を選ぶというのがイスラームの考え方であって、これ自体がイスラームの法に組み込まれています。それに従うのはタリバンも同様です。
クルアーンやハディースは法律ではなく宗教書ですから、それを前提にさらに法律が作られていきまして、今から1000年ぐらい前にイスラームの法律が固まっています。そこには明確に「法学者と力を持っている人間たちが合議をした上で決める」と書かれてるのです。
イスラームの法を実践することがイスラームの政治ですから、国を運営するためにはまず法を知らなくてはいけません。ですからまず、当然法学者が政治に関わります。もちろん権力がないと政治の運営はできませんから、権力を持った人間も必要になる、というわけです。
それではイスラームの黎明期、預言者ムハンマドの時代はどうだったかというと、当然そうではありませんでした。
当時のアラビア半島は文明の辺境でした。「辺境」とはいっても決して未開の地ではなく、ムハンマドの次々代の指導者の時代には中国(当時は唐)と国交を結んでいるくらいの文明はありましたが、辺境ではあったので学者はあまりいません。
預言者ムハンマドも元々羊飼いであって、成人してからは商人でしたけれども文盲だったと言われています。私は、おそらく文字ぐらいは読めたと思いますが、この辺りははっきりしません。少なくとも自分で文章を書くようなことはできなかった人です。クルアーンも書記が書き留めています。
このようにムハンマドは学者では全くありませんし、ムハンマドの後を継いだアブー・バクルを始めとする、「正統カリフ」と呼ばれる4人のカリフも、元々は普通の商人だった人で、学者ではありません。ムハンマドの時代には「イスラーム学者」なんてものはいなかったわけです。
イスラームの理想とされる「正統カリフ時代」には、まだ学問をする人間と、戦争や政治をやる人間はまだ分化されていませんでした。ムハンマドのお弟子さんの中でも人望、学識そして徳がある人たちが、政治的な指導者であると同時にイスラーム法を教える先生でもあった……という時代です。
但し、この時代はそう長くは続きませんでした。正統カリフ時代が終わり、次に興ったのはウマイア朝ですが、その初代カリフ・ムアーウィヤも預言者ムハンマドの直接のお弟子さんだった人です。理想的とされる「正統カリフ」の時代はそれくらい短く、ムハンマドが啓示を受けてから50年程度しか続きませんでした。
そこから後のイスラーム世界では、イスラーム学者と政治家とが分かれていきました。学者と権力者が分かれた前提の上で、その二つが合議をして決めていくというのが歴史的なイスラーム国家の在り方だったのですが、実はタリバンとは、その二つに分かれたものを「自分たちが正統カリフ時代の状態に戻す」と主張している人たちです。
1970年代、アフガニスタンにはソ連の海外政権ができ、軍事的にはソ連軍が支配している状況になりました(「タリバンの復権はなぜ「アメリカの世紀の終焉」なのか?【中田考】凱風館講演(後編)」を参照)。
これに対して元々独立独歩のアフガニスタンでは1979年から抵抗運動が起きました。これはイスラームの聖戦・ジハードであって、共産主義政権に対して戦う戦士たちが「ムジャーヒディーン」と呼ばれる人たちです。
結局その後10年間戦って、1989年にロシア軍は撤退します。そこからガラガラとソ連は崩壊していきました。その意味では、実はアフガニスタンが冷戦を終わらせ、共産主義世界を壊したわけです。
ムジャーヒディーンは89年にソ連軍を追っ払い、その後3年間かけてソ連の傀儡政権を倒して一応アフガニスタンを解放したのですが、彼らは多くの軍閥に分かれ、それからのアフガニスタンは戦国時代になってしまいました。首都カブールの中でも地区ごとに軍閥がいて、お互いに戦い合っているような状況でした。
当時私は専門研究員としてサウジアラビアの日本大使館で働いていました。毎日現地の新聞を読んで、「今日はカブールの○地区で○派と○派が戦争した」といった情報を集め、重要なニュースを日本の外務省に送るような仕事もしていました。
ソ連が撤退した後まとまらなかったアフガニスタンは、日本で言えば東京都の中でさらに区ごとに支配する派閥が異なるような状況でした。それぞれの軍閥が各地域に関所を作り通行料を取り、「他のムジャーヒディーンから守ってやる」と言ってみかじめ料を取るような、匪賊化した状況になってしまい、国民たちは非常に苦しんでいました。
そこに現れたのがタリバンです。「タリバン」は複数形で、単数形である「ターリブ」とは「イスラームの知を求める者」というニュアンスの言葉で、「イスラーム学者」というよりは、基本的には学生に使う言葉です。(「国際テロ組織と指定されている「タリバン」という名前の由来と誤解【中田考】凱風館講演(前編)」を参照)
イスラームの学問では、20年かけてイスラームの勉強を一通り終えた人が、そこからさらに20年かけて後輩に教えると、やっと一人前のイスラーム学者を名乗ることができるシステムになっています。
そして20代の中盤ぐらいから30代ぐらいまでの、丁度自分の勉強を終えて後輩に教え始めた人たちは、まだ「ターリブ」と呼ばれます。タリバンとはこのレベルの人たちのことです。
1994年頃、そのような学生が中心になってタリバン運動が始まり、そこから2年で首都カブールを占拠しました。それが1996年から始まり、9・11アメリカ同時多発攻撃事件を承けてのアメリカが主導する国連軍の侵攻で2001年に崩壊するまで続いた第一次タリバン政権です。
話を戻すと、このようにタリバン政権の設立者たちは、イスラーム学を勉強している人たちです。特に、アフガニスタンはアラブ語圏ではないので、専門的に勉強しないとイスラームの古典を読むことすらできません。そのようなところで20年~40年もイスラームの勉強した人間は当然、学者として社会の指導者の立場になるわけです。
先ほど説明したように、イスラームの指導者は選挙によって選ばれますが、この時の選挙人の資格は、「イスラーム学の知識を持ってる人間」、そして「政治力・軍事力を持ってる人間」です。これまでイスラーム社会の中では、基本的に、この2種類の人間は階層が分化していました。
ところがタリバンは、たまたま戦争の時代に生きたことで、その両方を自分たちが持っているわけです。これがタリバンのアイデンティティになっています。
つまり、イスラームにも選挙はあるのですが、タリバンにとっては、その選挙人の資格を持っている人間が自分たちしかいないのです。
これは、「マイノリティへの差別」といったこととは全然関係がありません。イスラーム法の知識が無い人間は選挙に関われませんし、力のない人間も弾かれるのが、そもそものイスラームの法だからです。
イスラーム学の知識がなくても権力がある人間は、そういう人が従わないと国が治まりませんから、当然政治の場に呼ばれることになります。ところが今回タリバンがアフガニスタンを制圧するにあたり、アフガニスタンにある全34の州の全てが無血開城しています。つまり、アフガニスタンの国内には、タリバンに抵抗する力を持っている勢力がないのです。
このような理由で、イスラーム的に言うと、イスラーム学の学識と人々を服従させ実効支配を確立できる武力を兼ね備えたタリバンだけが参加して政権を作るのは当たり前のことです。西洋の考え方とはそもそも前提が違うわけです。
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